河内 貞芳

昭和52年(1977)東京都港区生まれ。
道楽として歴史調査を続ける。
これまでに46都道府県をまわり約800人の幕末人を掃苔する。
ライフワークは明治初年の警視庁と幕末の丹南藩の調査。
道楽が高じ、現在は台東区竜泉にある川路大警視邸跡直近のマンションに居住中。
『歴史研究』に「四十七都道府県 幕末維新掃苔録」をリレー連載。
私家版として『侍たちの警視庁』『幕末墓参り紀行(なでしこ編)』を出版。

 

『歴史研究』リレー連載過去掲載記事
「四十七都道府県 幕末維新掃苔録」

 

第一回 福島県と青森県(中野竹子と中野優子)
第二回 大楽源太郎の墓
第三回 田中河内介の墓
第四回 高知県と和歌山県(岡田以蔵と森田節斎)
第五回 白神山地の不識塔


第一回目 福島県と青森県(中野竹子と中野優子) 『歴史研究』2009年10月号掲載

  はじめまして。河内貞芳と申します。明治初年の警視庁について研究しています。
  警視庁の発足は明治七年で、その際に三千人の侍が警察官として採用されました。薩摩藩士がもっとも多いのですが、幕臣や東北諸藩士、その他全国各地の藩士たちも採用されました。数年前まで敵味方に分かれ血みどろの戦いを繰り広げていた侍たちが同じ羅紗の制服に身を包み、首都・東京の治安維持に当たったという史実に惹かれた私は、創成期の警視庁を彩った彼らの墓や史跡を訪ねることに夢中になり、その調査記録を私家本「侍たちの警視庁」として一冊にまとめました。その後、本の批評をしていただきたく釣洋一先生を訪ねたことがきっかけで、先生と奥様が経営の『音楽酒房 春廼舎』に通うようになり、先生を通じて沢山の歴史研究家の方々を紹介していただきました。
  こうして出会った同好の士である金子・加藤・黒坂諸氏とは『探墓巡礼会』を結成しましたが、このたび吉成主幹より『歴史研究』誌上に研究発表の場を与えていただく機会に恵まれました。
  不肖、私がトップバッターを務めることになりましたが、高レベルの研究発表は心強い仲間たちに任せるとして、私は掃苔の思い出話を書かせていただきたいと思います。明治初年の警察官掃苔のためこれまで訪れた四十四都道府県では、同時に幕末維新を彩った著名な人物約六百人の掃苔もしてきました。その中で特に印象深かった掃苔の思い出を、都道府県別にご紹介させていただきたいと思います。
中野竹子
  福島県では、会津若松市で松平容保(東山町石山院内 松平家墓所)・白虎隊(一箕町八幡飯盛山)・西郷頼母・二十一人墓(北青木 善龍寺)・萱野権兵衛・郡長正・近藤勇(東山町石山天寧 天寧寺)・佐々木只三郎(東山町石山院内 会津武家屋敷)・柴五郎(花見ヶ岡 恵倫寺)・町野主水(大町 融通寺)・河井継之助(建福寺前 建福寺)、喜多方市では中根米七・佐藤銀十郎(熊倉町 杉の下墓地)、いわき市では安藤信正(平字古鍛冶町 良善寺)、二本松市では二本松少年隊(成田町 大隣寺)、河沼郡では中野竹子(会津坂下町 法界寺)を掃苔してきました。
  明治初年の警視庁出仕者では、藤田五郎(七日町 阿弥陀寺)・柴五三郎(花見ケ岡 恵倫寺)・池上四郎(栄町 興徳寺)・海老名季昌(天寧寺町 浄光寺)・飯沼源八(花見ヶ岡 大窪山墓地)・窪田重太(東山町慶山 愛宕神社)・大桶弘蔵(根崎町 善性寺)を掃苔してきました。
  初めて会津若松を訪れたのはまだ十代の頃。白虎隊記念館で中野竹子・優子姉妹の勇ましくも美しいマネキンに見とれたことを憶えています。中野竹子殉節之地碑と石像が神指町黒川にあると知り、さっそく見に行きましたが、やはり墓も見たくなります。妹の優子の墓はわかりませんでしたが、姉の竹子の墓は只見線の会津坂下駅から一キロほどの法界寺にあることがわかりました。
  法界寺にある竹子の墓は立派に整備されていました。傍には竹子を詠んだ短冊なども展示されており、人気の高さを感じさせられました。   帰京の車中で、レコード屋のおじさんに薦められるままに購入した『おんな白虎隊』のカセットテープを聴きながら、いつか妹の優子の掃苔もできたらと考えました。
写真:中野竹子の墓

  青森県弘前市では明治初年の警視庁に出仕した杉山上総(西茂森 宗徳寺)を掃苔しました。掃苔目的ではありませんが、むつ市の柴五郎住居跡も訪れました。柴五郎の兄・五三郎は西南戦争に際し警視庁に出仕していますが、斗南藩時代は柴五郎住居跡に隣接する呑香神社に住んでいました。会津藩出身警察官たちの西南戦争への意気込みを感じるため、どうしてもこの地に立ちたかったのです。その後、新町の徳玄寺で『幕末太陽傳』の川島雄三監督を掃苔し、八戸に戻りました。
  その日のうちに東京に帰らねばならなかったので、訪問できるのはあと一カ所が限界でした。掃苔したい墓はいくつもありましたが、私が選んだのは中野優子(湊町字館鼻 御前神社神葬墓地)でした。中野優子
  八戸線陸奥湊駅で降り、商店街途中の坂道を上った丘の一角に小さな墓地があります。入ってすぐのところに蒲生家之墓と彫られた墓がありますが、これが中野優子の墓です。姉の竹子の墓とは違い案内板などもなく、ごく普通の静かな墓です。手をあわせてお参りし、滞在五分ほどで去りました。
  駅へ向かう坂道を下っているうちに、劇的な会津の姉妹二人を掃苔できた満足感が広がってきました。会津坂下で姉の竹子を掃苔してから、十年以上の歳月が過ぎていました。
写真:中野優子の墓

  

  

第二回目 大楽源太郎の墓 『歴史研究』2010年4月号掲載墓へ至る道

  山口県では、萩市では吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿(椎原 護国山)・国司信濃(椿東 東光寺)・前原一誠(土原 弘法寺)、山口市では周布政之助(周布町 周布公園横)・所郁太郎(吉敷上東)・広沢真臣(赤妻町)・井上馨(水の上町 洞春寺)・毛利敬親(香山町 香山園)・大村益次郎(鋳銭司)、防府市では野村望東尼(桑山 大楽寺墓地)・大楽源太郎(大道)、下関市では中山忠光(綾羅木本町 中山神社)、長州殉国志士(上新地 桜山神社)、高杉晋作・おうの・赤根武人・白石正一郎・奇兵隊墓地(吉田 東行庵)を掃苔しました。
  長州藩からの明治初年の警視庁出仕者の中では、林三介、寺島秋介、安村治孝などが有名です。寺島と安村の墓は東京にあります。林の墓は萩にあるということですがまだ掃苔できていません。警視庁出仕者ではありませんが、山口県には川路利良が初代大警視になるために欠かせなかった篠原秀太郎という人物の墓があります。川路は禁門の変で長州藩の篠原を討ち取ったことにより西郷隆盛に認められています。その篠原の墓を、東行庵で偶然見つけたときは感激しました。なお、篠原の墓は京都の霊山にもあります。
  山口県における一番深い掃苔の思い出は、大道で出会った大楽源太郎の墓だと断言できます。新山口からJR山陽本線で二つ目の大道駅から徒歩十五分程度のところに、大楽の墓はあります。なお、福岡県久留米市寺町の遍照院にも大楽たち四人の「四士之墓」があります。
  訪れたのは、夏のひどく暑い日でした。その日は朝から山口市内の墓を次々に掃苔しており、へとへとにばてていました。大楽の墓があるのは寺ではありません。芝山と呼ばれる山の中です。それほど高い山ではないようなのですが、入口がわからず、ずいぶん迷いました。「ここかな?」と思うケモノ道に入ってみても、いずれもすぐにただの藪になってしまいます。一時間ほど周囲をうろうろとしましたが見つかりません。場所を聞こうにも誰もいません。草むらで転んでしまい、手のひらから血が流れヒリヒリします。汗がだらだらと流れ、手持ちのペットボトルのお茶も飲み干してしまいました。
  しかし間違いなくこの山のどこか、この藪の向こうに大楽の墓があるのです。そう思うと、絶対にお参りをしたい気持ちが高まりました。一度スタート地点までもどり今度は反対側を探したところ、大楽の墓の場所を示す石標を見つけることができました。しかしその石標の先を見て、唖然としました。大楽の墓へと続く道は、先程のケモノ道に匹敵する藪に包まれていたのです。
  藪に覆われた薄暗い道を進むと、でかい蜘蛛の巣が道をふさいでいました。巣にはもちろんでかい蜘蛛がいます。そっと巣を揺らすと蜘蛛はあわてて逃げて行きます。それからできるだけ巣を壊さないようにしながら先に進みました。掃苔家にとっては日常茶飯事なことなのでこれくらいでは動じません。しかし二、三メートルも進むと、またもやでかい蜘蛛の巣が道をふさいでいます。その後も数メートル進むごとにでかい蜘蛛の巣と対面しました。まるで私が先に進むのを拒むかのようです。いくつもの巣を壊し、先に進みました。巣に気がつかず、顔面に糸がへばりつくこともありました。目に入るとなかなか取れません。一体あといくつの蜘蛛の巣を突破すれば大楽に会えるのだろう?かなり憂鬱な気分になりました。
  十以上の蜘蛛の巣を払いながら進むと、やっと藪が開けた小さなスペースにたどり着きました。そこに三基の墓が並んでいます。そこが大楽の墓所でした。とても管理が行き届いている墓所とはいえません。今年になって何人の人がここを訪れているのでしょう。つい二時間前、隣の駅で掃苔した大村益次郎の墓の近くには訪問者が名前を書くノートが置かれていたことを思い出しました。
  一番手前の、「大楽奥年夫婦之墓」と彫られた墓が大楽源太郎の墓だとわかりました。お参りしようとしてゾッとしました。墓石にムカデが這っています。その時ムカデの横をすばやく横切るものがいました。トカゲでした。墓好きの私ですが、このときばかりは早く立ち去りたい気分に襲われました。
  手を合わせて拝みました。そして、行きと同じように蜘蛛の巣に絡まりながら引き返しました。大楽源太郎の墓
  藪から出ると、駅にむかってまっすぐ早足で歩きました。道には干からびたミミズが何十匹と転がっていました。気温は三十度以上あり汗はとめどなく流れています。しかし寒気がし、腕一面に鳥肌がたっていました。
  駅に着き、ベンチに座りました。蜘蛛の巣だらけになったズボンやシャツの汚れをとりながら、大楽のことを考えていました。大楽の人生は悲惨な暗殺で幕を閉じています。死後、あの藪の中に葬られ、成仏できているのでしょうか。
  鳥肌はその後もしばらく、消えませんでした。

  

 

第三回目 田中河内介の墓 『歴史研究』2010年10月号掲載

  釣洋一先生と奥様の経営される『音楽酒房 春廼舎』にお邪魔すると、いつも掃苔談義に花が咲きます。私にとってとても楽しい時間です。
  あるとき顔なじみの常連から、「そんなにお墓ばかり訪ねてて、バチが当たったり怖い思いをしたことはないんですか?」と聞かれたことがあります。釣先生は「一度もないよ」とおっしゃっていましたが、実は私には一度だけ、心底恐ろしいと感じた掃苔がありました。今回はそのことを書かせていただきたいと思います。田中河内介
  私は仙石騒動について調べています。仙石騒動と言うと、主家乗っ取りをたくらんだ悪家老の仙石左京が忠臣に暴かれて処刑された事件とされています。しかし出石まで足を運び、地元の研究家の話を聞くと、真相はまったく異なるものであったことがわかります。
  出石藩家老の左京は、二十万両の負債を抱えた藩財政を立て直すべく厳しい倹約令を発しました。反左京派は、倹約令を不満に思っていた前々藩主夫人の常真院に、「先代藩主が亡くなった際の左京の動きは怪しい。」「倹約をさせていながら左京自身は贅沢をしている」等の虚言を吹き込みました。
  それを信じた常真院は、実家である姫路藩の藩主夫人・喜代姫に反左京派が吹き込んだ左京の悪事を打ち明けました。その話を喜代姫が父である将軍・徳川家斉に伝えたことで、事件は大騒動へと発展します。
  喜代姫の話を頭から信じ込んだ家斉は、左京の断罪を望みました。時の幕府老中首座・松平康任は左京の親戚にあたり、老中・水野忠邦は左京を極悪人として処刑することで松平を失脚へと追い込めると考えました。将軍と老中の意思の下、左京は獄門に処されました。これが仙石騒動の真相のようです。
  左京には二人の男児がいたようです。長男は流罪となり三宅島で死亡し、二男は豊後岡藩に預けられましたがその後は不明です。寺田屋事件の後に惨殺された田中河内介がその子だという説や、大老・井伊直弼のブレーン長野主膳が左京の子だという説もあります。どちらも信憑性に乏しく、非業の死を遂げた人物を左京と結びつけたのではないかと思いました。
  仙石騒動についてまとめるため関係する史蹟を巡っていた私は、騒動のきっかけを作った喜代姫の掃苔のため姫路市の景福寺を訪れました。その後姫路駅に戻り、姫路港に向かうバスに乗り込みました。フェリーで小豆島に渡り、雲海寺(内海町福田369)で田中河内介の掃苔をするためです。
  バス後方の窓側の席に座り、右腕を窓のサッシに置いて車窓を眺めていました。もうすぐ港に着くなと思っていると、ふと私の右腕に毛むくじゃらの黒い手が置かれていることに気がつきました。後ろの席の客がでっかい犬でも連れていて、それがいたずらをしているのだろうかと思い、後ろの席を振り向きましたが誰もいません。不思議に思い、しゃがみこんで椅子の下を見ましたが何もいません。車内を見回しましたが、乗客は私以外一人もいませんでした。
  一体何だったのだろうと考えているうちに、ゾッとする考えが浮かびました。「河内介が怒っているのではないだろうか」私がそんな非現実的な考えを持ったのは、河内介の怨念話をいくつも知っていたからだと思います。河内介がもし本当に左京の二男だとすれば、喜代姫は河内介にとって父が殺されるきっかけを作った仇と思っているかもしれません。河内介の怨念が本当にあるとすれば、喜代姫の墓に手を合わせた直後に自分の墓を訪れようとしている私を、許せないのかもしれません。
  姫路港でバスを降りると、すぐ近くに神社を見つけました。航海の安全を祈る神社でしたが、私は駆け寄って手を合わせ、河内介へ弁明しました。
不安な気分のままフェリーで小豆島に渡り、雲海寺を訪ねました。河内介の墓は海が見下ろせる高台にありました。墓地は綺麗に整備されており、地元の方々によって今も大切に供養されていることがわかりました。側には、河内介の同志で同じく薩摩藩士に惨殺された細島三志士合霊の碑もありました。
  あの黒い手はなんだったのかはわかりません。今は、河内介の怨霊話を聞いていた私が無意識のうちに見た幻だろうと思っています。あの墓を見ていると、河内介の怨念が今も残っているとは思えなかったからです。
  数年後、宮崎県日向市細島を訪ねました。河内介の同志で、同じく薩摩藩士に惨殺された細島三志士である海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎の掃苔をするためです。   日向市駅前でタクシーをひろい、日向岬方面に向かいました。細島三志士の墓は、入江のそばの小島にあります。干潮時には砂浜を歩いて小島まで渡れるそうですが、満潮時だったためヒザまで海水に漬かりながら島に渡りました。
島の白い砂浜をはだしで踏みしめながらたどり着いた墓地は、思っていた通り、とても綺麗黒田の家臣に整備されていました。小豆島の河内介と同じく、地元の方々によって大切に供養されていることがわかりました。
  行きと同じようにヒザまで海水に漬かりながら入江に戻ると、待っていたタクシーの運転手さんが「本当に渡ったんですか」と少し呆れた様子で話しかけてきました。

 

 

第四回目 高知県と和歌山県(岡田以蔵と森田節斎) 『歴史研究』2011年4月号掲載

  海外で七百人以上、国内でも七百人以上の墓を掃苔し、「墓マイラー」という言葉の生みの親でもあるカジポン・マルコ・残月さんと酒席をご一緒する機会がありました。
  カジポンさんは我々にとって生きた伝説ともいえる存在ですが、とても気さくな方で、初対面にもかかわらず大いに盛り上がりました。
  私の掃苔リストをご覧になっていたカジポンさんが「岡田以蔵の墓、蚊がすごくありませんでした?」といいました。「そうそう!蚊がすごかった!大楽源太郎の墓と同じくらい!」掃苔屋同士だと、こんなきっかけで意気投合します。
  高知県には今までに二回、掃苔に訪れています。
  高知市では武市瑞山(仁井田3021 瑞山神社)・岡田以蔵(薊野 真宗寺山)・武市熊吉(筆山町 筆山)、安芸郡では清岡道之助(田野町839 福田寺)、室戸市では植松直久(佐喜浜 大日寺)を掃苔してきました。二回訪れているのにこれだけです。他の県に比べ掃苔が難しい。これが私の高知県の印象です。
  土佐では墓は山に建てることが多いようです。数年前の夏の日、明治十年の警視庁における土佐派の最高位であった丁野遠影の墓を探しに、皿が峰という墓山を訪れました。
  皿が峰には数えきれないほどの墓が点在します。墓も道も覆い隠すほど旺盛な夏草に肌を切られ、何度も顔面に蜘蛛の巣を絡ませ、途中から雨に降られ、血と雨と汗でグチャグチャになりながら歩きまわりました。
  膝がガクガクになるまで探しましたが、結局、目的の丁野の墓と出会うことはできませんでした。収穫といえば、偶然出会えた武市熊吉の墓と、山頂付近にある大岩から見た展望が素晴しかったことぐらいです。
  旅先という時間の限られた中、五時間にわたる努力が報われなかった精神的ダメージは甚大でしたが、残りわずかとなった高知滞在時間を無駄にはできません。次の目的である薊野の真宗寺山にある岡田以蔵の墓を目指しました。
  真宗寺山は墓山の入口から壮絶でした。鬱蒼と草が茂っている細い道の真ん中に、犬のものと思われる巨大な糞が鎮座しており、まるで行く手を阻むようです。雨上がりのため湿気が強く蒸し暑い上、墓山を登るにつれ草木はいよいよ欝蒼としてきてきます。皿が峰の悪夢がよみがえりました。
  陽の射さない藪の中に、岡田と刻まれた墓が並んでいるのを見つけました。その墓域の一番奥、もっとも暗い場所に「岡田宜振」と彫られた以蔵の墓はありました。壮絶で、孤独な雰囲気を持つ墓でした。紙パックの焼酎が供えられていましたが、随分古いもののようでした。手を合わせて拝み、ホッとしたのもつかの間、何匹もの蚊が腕に留まっていることに気がつ岡田以蔵き、追い立てられるように墓をあとにしました。
  墓山を出ると、先程までの重苦しい空気がうそのように、青い夏空が広がっていました。
  皿が峰も真宗寺山も、歴史上の人物の墓が多く存在するにもかかわらず、案内板もなく探すに探せない状態で、「二度と訪れたくない」と思いました。しかし日を追うごとに皿が峰にリベンジしたい気持ちが強まってきています。未整備な分、掃苔屋魂を燃え上がらせます。もう一度、夏の墓山を歩き、血と汗にまみれてみたい気がしています。
写真:岡田以蔵の墓  

  和歌山県にはこれまでに三回、掃苔に訪れています。
  和歌山市では佐々木只三郎(紀三井寺 紀三井寺)、那賀郡では森田節斎(粉河町荒見地区内北家墓地)、新宮市では水野忠央(橋本 水野家墓所)、伊都郡では村野山人、新門辰五郎、黒田長溥(いずれも高野町高野山 奥の院)を掃苔してきました。
  森田節斎の墓の場所は、何冊かの本を調べても略地図しか載っていません。どうやら寺の墓地ではなく、紀州富士と呼ばれる竜門山にあるようです。屋敷内や畑内にある墓となると、見つけるのは難しくなります。
  最寄駅に案内板でもあるのではという、淡い期待も外れました。その日は高野山のお寺で歴史の話を伺う予定があり、これに遅れるわけにはいきません。
  電話で呼んだタクシーの運転手さんに「森田節斎の墓まで」と伝えましたが、やはり知らな森田節斎かったため、略地図を渡してその方角へ向かってもらいました。運転手さんは地図の示す場所付近までくると車を降り、近くの民家で墓の場所を確認してくれ、何度か道を尋ねた末、たどり着くことができました。
  運転手さんは、「この町で長いことタクシーやっていますけど、こんな墓があるとは知りませんでした。良い勉強をさせてもらいましたよ。」と言いました。森田節斎の掃苔が無事に行えた嬉しさで気が大きくなっていたのでしょう。私は請求された額より少し余分にお金を払って車を降りました。
写真:森田節斎の墓

  

  

第五回目 白神山地の不識塔 『歴史研究』2011年10月号掲載

白神山地の不識塔

  釣洋一先生にお声掛けいただき、去る4月23日、第36回江戸史談会の講師を務めさせていただきました。演題は「幕末維新掃苔録 忘れじの墓~素晴しかった、過酷だった、思い出の掃苔ベスト50~」です。
  これまでに46都道府県を訪ねて掃苔してきた幕末維新を生きた人物約800人の中から、特に印象深い50人の墓を選び、その人物の事績を交えつつ、忘れられない掃苔の思い出を紹介しました。
   掃苔してきた中には、山の中にある墓、海を歩かねば行けない墓、ガスマスクを常備せねば行けない墓など、強烈な印象を残す墓が数多くあります。苦労が大きければ大きいほど、墓にたどり着けたときの喜びも大きくなります。
  今回は、講演で紹介した50人の中でも屈指の思い出となっている掃苔について、紹介したいと思います。

  明治十年に警察官となり、のちに土木建築業で大成した斎藤主が建立した不識塔を訪れるため、青森県白神山地を訪れました。
  不識塔は白神山地に建つ高さ約20メートルの煉瓦造りの塔です。斎藤主は大正元年に開拓記念碑として不識塔を建立しましたが、自らの遺体を塔の底部に埋葬するようにと遺言しているので、自らの墓として建てたとも考えられています。
  不識塔へ至る山道は、十一月から五月までは雪のために通行が難しくなります。私が不識塔の存在を知ったのは十一月の終わりでした。私はいつも、興味ある人物の墓が見つかるとすぐにでも駆けつけたくなります。
  今回も五月まで待ちきれず、その前になんとか訪れる手段はないかとインターネットで調べているうちに、白神山地ビジターセンターが二月に主催する「雪上トレッキング不識の塔」というツアーを見つけたので、これに参加することにしました。
  白神山地ビジターセンターは、弘前駅からバスで約50分、西目屋村役場駅下車5分ほどの場所にあります。集合時間の午前9時、集合場所には3人の講師と12人の参加者が集まりました。参加者はカンジキかスノーシューの着用が必須ですが、雪山初心者の私は持っていないのでビジターセンターで貸してもらいました。
  ビジターセンターからは、専用バスでトレッキング出発地点である川原平に向かいます。出発地点からしばらく進むと「不識の塔 1.5km」の看板が見えてきました。ここから先はカンジキを装着します。
  山道に入ると、そこはもう白銀の世界です。美しくも、迷い込めば死につながりかねない恐ろしい世界に感じました。しかし雪上はたくさんの動物達の足跡があり、確かに命が育まれていることがわかります。講師の先生が教えてくれたウサギやタヌキの足跡、ムササビの爪痕、キツツキがつついた穴、ヤマネの巣、カモシカのかじった枝などを撮影しました。
  カンジキのおかげで快適に進むことができ、不識塔と同じく斎藤主が建立した広泰寺に着きました。煉瓦造りの独特な寺です。
  広泰寺はもともと山形県米沢市にあった上杉謙信ゆかりの寺ですが、斎藤主がこの地に移し、自らが住職となって再興したものです。不識塔の名前も上杉謙信の号「不識庵」からきていますし、斎藤主は謙信フリークだったようです。
  広泰寺から不識塔への道はこれまでにない急斜面です。参加者のお一人からストックをお借りしてなんとか登ることができました。
  出発から1時間45分後、不識塔に到着しました。損壊が激しいため、現在は塔全体が鉄骨に覆われていて、すぐそばまで近づいても百万塔やこけしに似たその独特な姿はよく見えません。斎藤主の遺骨も、現在は弘前市内の寺に移されたそうです。しかしそれでも、ここまで来ることができたことへの感動で身が震えました。私は皆さんから少しはなれて一人になり、不識塔に合掌しました。
  復路も急な斜面の連続で、雪山初心者の私は無知からくる失敗の連続でしたが、山慣れしている他の皆さんはその都度助けてくださいました。
  万歩計では一万一千歩程度のトレッキングでしたが、雪山での上り降りは膝にきました。鉄骨に覆われた不識塔
  参加者のお一人が「私は車で青森まで帰るので、良ければ送ってくよ」と言ってくれました。弘前のコインロッカーに荷物を入れてしまっていたので丁重にお断りしましたが、あらためて青森人の人情の深さを感じました。これは青森を訪れる度にいつも感じることです。
  不識塔から西目屋村まで約2時間30分、西目屋村から弘前まで約50分、弘前から新青森まで約40分、新青森から東京まで約3時間40分。家路は遠かったですが、不識塔を訪れることができた喜びをかみしめ、私の心は満たされていました。