金子 千滋

昭和54年(1979)神奈川県川崎市生まれ。
小学生時より歴史に興味を持ち、著名人の墓など史跡巡りをする。
大正大学史学科で学芸員資格取得。
卒業論文は『後期水戸学について―特に「新論」を通じて―』。卒業後はサラリーマン生活の傍ら史跡巡りを続け、一昨年3月の全国歴史研究会墓碑研究部会・探墓巡礼顕彰会発足時のメンバーに参加。
墓碑研究における専門分野は徳川将軍家・大名家・旧華族家・奥州二本松藩関係者の墓碑調査等。
現在『歴史研究』誌上にてリレー連載中の「掃苔行脚」にて「二本松掃苔録」を連載中。

 

『歴史研究』リレー連載過去掲載記事
「二本松掃苔録」

 

二本松掃苔録③~戒石銘碑の発案者岩井田昨非の墓~
二本松掃苔録④~時代に翻弄された丹羽長国とその兄弟達の墓~


二本松掃苔録③~戒石銘碑の発案者岩井田昨非の墓~

  二本松藩の歴史を語る上で、はずせないものの一つに戒石銘碑がある。これは六代藩主丹羽高庸が儒学者岩井田昨非の献策を受け入れ、霞ヶ城東側の藩庁前の花崗岩の大石に刻ませたもので、
爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月
という四句十六字の漢文が刻まれている。「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」という意味のこの文は藩庁に出仕する藩士を戒め、その後の二本松藩士の士風を形成させたという。戊辰戦争において二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し落城するまで戦い、多くの藩士が戦死・自害を遂げたが、それは戒石銘碑に代表されるような 質実剛健たる士風を持っていたからだと言われている。
  岩井田昨非(元禄十二年(1699)~宝暦八年三月十四日(1758.4.21))は名は希夷、通称を舎人といい岩松伝兵衛可往と脇屋氏の子として下野国芳賀郡で生まれる。江戸に出て幕府儒官の桂山彩巌に儒学を学んだ。当時、二本松藩では五代藩主丹羽高寛が藩政改革に取り組んでおり、改革を主導していた家老丹羽忠亮は桂山に人材の相談をしたところ昨非が推薦され、享保十九年(1734)百五十石で召し抱えられることになった。藩主・家老を後ろ盾とした昨非は綱紀粛正・税制改革・生産奨励・藩士教育等の諸改革を推進するが、反発する家臣団も多く、抗争も起きた。六代藩主高庸に代替わりしてからも重用され、会津藩との境界争いの解決に手腕を発揮した。寛延二年(1749)に藩政改革と綱紀粛正の指針として戒石銘を藩庁入口に刻むことを進言した。戒石銘は北宋の皇帝太宗が大平興国八年(983・永観元年)に後蜀の皇帝孟昶が作った『戒諭辞』二十四句九十六字から四句十六字を抜出し州県の官史に示したもので、さらに南宋の皇帝高宗が石に刻ませ、官史の戒めとして用いたものである。この戒石銘を刻んだ碑が出来ると、辞句の曲解などが広まり、それが凶作下の農民に広がると、積達農民一揆が起き、別名昨非騒動とも言われた。一揆が沈静した後も反昨非派の非難はやまず、宝暦三年(1753)に職を辞し、隠遁し詩作の生活を送り宝暦八年(1758)六十一歳で没した。現在では戒石銘碑生みの親として名学者とされている昨非であるが、生前は毀誉褒貶の激しい人物であった。
  昨非の墓は二本松市竹田二丁目の九品山大慈院台運寺にある。台運寺は寛永二十年(1643)、初代藩主丹羽光重が白河から二本松に移封された際に、白河常宣寺の第四世往蓮社生誉学山上人により開山された。二代将軍徳川秀忠の霊廟も建てられ、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶の五将軍の位牌が安置された。霊廟は焼失したが、位牌は厨子とともに現在でも安置されている。藩主の生母や側室の墓所にもなったため、藩主の菩提寺大隣寺が男寺と称されたのに対し女寺とも称された。この丹羽家の墓所は本堂の左脇に現存している。昨非の墓は、本堂左側の墓地を裏山へ登り詰めた山頂にある。正面には[昨非先生之墓]と刻まれ、側面・背面には弟子の伊東祐良による撰文が刻まれている。摩耗している部分が多く、はっきりと読み取ることができないが、二本松市立図書館にある二本松史談会による『双松碑文集』(非売品)にはその碑文の全文が掲載されている。その文の中には遺言により刻まれた四句三十二句の漢詩が含まれている。昨非墓の右側には夫人春子の墓があり、正面に[榮松院貞譽清香是覺大姉]と刻まれている。藩内の婦女子に内職として、糸紡ぎ機織り、庭内に野菜などの栽培を勧めた。春子墓の手前には昨非の両親の墓があり、正面に[正徳二壬辰年正月二十五日 眞道院根譽生善可往居士 清岸院香譽蘭溪妙秀大姉 享保三戊戌年六月三日]と刻まれている。昨非の墓碑の左奥に脇屋家之墓があるが、この脇屋家は昨非の子孫が明治期になり、昨非の母方の姓に改姓したものである。江戸期の岩井田家の人々の墓もそこに並んでいる。昨非の子鳳溪、孫円中、岩井田昨非の墓碑維新時の当主竹山、その子竹崖等昨非の子孫は博学で詩文を善くしたという。
  この台運寺には二本松藩士の墓が多数あり、重臣である青山家、江口家、久保家や二本松少年隊士奥田午之助、中村久次郎などの墓がある。昨非の墓へ登る途中には江戸期の古い墓碑が数多くあるが、中には雑草に埋もれたり倒壊しているものもあり、戊辰戦争で屍れた二本松藩士の残照を見るかのようであった。

写真:岩井田昨非の墓碑

  

  

二本松掃苔録④~時代に翻弄された丹羽長国とその兄弟達の墓~

  戊辰戦争時の二本松藩主は十代丹羽長国であった。長国には多くの兄弟・姉妹がおり、弟や妹達もまた幕末の動乱に翻弄された人生を送ることになった。幕末に翻弄された大名兄弟と言えば高須四兄弟(徳川慶勝・徳川茂栄・松平容保・松平定敬)を思い起こすが、この丹羽兄弟・姉妹達もまた、佐幕と勤王の間で苦難の道を歩んだのであった。今回はその丹羽兄弟・姉妹の墓を巡る。
  丹羽長国(天保五年四月十四日(1834・5・22)~明治三十七年(1904)一月十五日)は九代藩主長富の六男で幼名を保蔵という。二十五歳で家督を相続すると、富津海岸の警備や水戸天狗党の討伐を命ぜられるなど、激動の波に飲み込まれて行く。戊辰戦争の時は病身のため、家老達が政務を執り新政府軍と抗戦。二本松城落城前日の慶応四年七月二十八日(1868・9・14)に家族とともに米沢へ落ち延びた。その後、五万七百石に減封され、米沢藩主上杉斉憲の子長裕を養嗣子に迎え隠居。明治三十五年(1902)に早世した長裕の後を継いだ長保にも先立たれ、再び家督を相続し子爵となった。
  長国の墓は東京都港区南青山の青山霊園一種ロ七号十四側にある。ここは丹羽家の明治以降の墓所で、都内に分散していた江戸期の墓もここに改葬されている。江戸期の藩主達の墓は福島県二本松市成田の曹洞宗大隣寺にある。正面に[丹羽家之墓]、台石正面に[寛政六年甲寅七月十有四日]と刻まれ、正面・側面に計十六人の羅漢像が彫刻されている。この珍しい墓碑は、『二本松寺院物語』(平島郡三郎著)によると、元々高輪泉岳寺にあった七代藩主丹羽長貴の弟長恒の墓碑だったとのことで、正面には元々[丹羽長恒墓]と刻まれていたようである。羅漢の下絵は狩野惟信の作と言われている。右側にある墓誌には長国の法名と没年月日が刻まれている。 [長壽院殿佛國蘭腕大居士 明治三十七年一月十五日]と刻まれている。享年七十一歳。正室の久子は美濃大垣藩主戸田氏正の二女で戊辰戦争の際、二本松から米沢に落ち延びた時の様子を記した『道の記』を残している。墓碑には[圓性院殿久遠實成大姉 明治三十三年一月二十五日]と刻まれている。墓域左側には[武将戦死者慰靈塔][二本松藩士戦死者慰靈塔]と刻まれた二基の角石があり、戊辰戦争で戦死した二本松藩士を供養している。
  長富の七男長之助は山城淀藩主稲葉正誼の養子となり、稲葉正邦(天保5年7月26日(1834・7・2)~明治三十一年(1898)七月十四日)と名を改め十六代藩主となった。稲葉家は春日局の血を引く譜代大名で老中などを輩出した家柄である。正邦も京都所司代、老中を務め、徳川慶喜と共に幕政改革に参画し、国内事務総裁も務めた。鳥羽伏見の戦いの際は江戸にいたため、国元の家臣達が淀城に退却した幕府軍の入城を拒否し、幕府軍に打撃を与えた。正邦は老中を辞任し淀へ退去し恭順した。維新後は神道に傾倒し神道事務局管長などを務めた。正邦の墓は兄長国と同じ青山霊園にあり、一種イ十三号二十八側にある。神式の石墳墓で右側にある墓碑に[第十六代淀藩主 正三位子爵稲葉正邦 明治三十一年七月十四日薨]と刻まれている。享年六十五歳。墓域左側にある碑文によれば、稲葉家は十九代で継承する実子がなく、平成十六年(2004)以降、縁戚にあたる会津松平家との共同使用となっているとのことであった。
  長富の八男富以は下総結城藩主水野勝任の養子となり、水野勝知(天保九年二月二十六日(1838・3・21)~大正八年(1919)四月二十二日)と名を改め十五代藩主となった。水野家は譜代の大名であったため、佐幕派として行動し、戊辰戦争に於いては藩内の恭順派と対立し、結城城に立て籠もり、落城後は上総成東や上野山内に潜伏した後、江戸二本松藩邸に逃れたが、新政府軍に捕らえられ伊勢津藩にお預けとなった。勝知の墓は結城市西町の曹洞宗孝顕寺にある。JR結城駅からレンタサイクルを借り、五分程度の所にその寺はあった。墓地の最奥に四基の水野家の墓碑があり、左から二番目の角柱石の墓が勝知の墓である。正面に[従三位水野勝知之墓]、裏面に[大正八年四月二十二日薨]と刻まれている。享年八十二歳。兄弟の中では最長寿であった。
  長国の二人の妹達は冒頭に述べた高須四兄弟の内二人に嫁いでいる。長富三女矩子は御三家尾張藩主十七代徳川慶勝正室となった。慶勝は御三家筆頭でありながら鳥羽伏見の戦い後、早々と勤王の意思を示し、国元の佐幕派を処断した(青葉松事件)。慶勝・矩子夫妻の墓は東京都新宿区新宿浄土宗西光庵にあり、墓地最奥の徳川慶勝墓に並んだ長方形型の墓碑がある。正面に[貞徳院殿恭蓮社寛譽和厚大禪定尼]、裏面に[明治三十五年十月二日薨]と刻まれている。西光庵の墓は昭和二十八年(1953)に遺骨だけを藩祖義直の墓がある愛知県瀬戸市定光寺町の臨済宗定光寺に改葬している。
  長富五女政子は御三卿一橋家十代当主徳川茂栄正室となった。茂栄は美濃高須藩主と青山霊園丹羽家の墓碑なった後さらに異母兄慶勝の養子となり尾張藩主となったが、隠居した後徳川慶喜が徳川宗家と継ぎ、空席となった一橋家を相続している。茂栄・政子夫妻の墓は谷中霊園寛永寺墓地、徳川慶喜墓所の正面にあり、政子の墓は宝篋印塔の形式で正面に[崇松院殿靜室寒光大姉]と刻まれている。
  幕末の激動期を生き抜いた兄弟・姉妹達はその後、一同に会することはあったのだろうか?そしてその時にどのような言葉を交わしたのか?墓碑を巡りながらそんなことに思いを巡らした。 

写真:青山霊園丹羽家の墓碑