加藤 健太郎

昭和50年(1975)静岡市生まれ。
中学の修学旅行で京都へ行き、幕末を調べたことをきっかけに歴史探究の道へのめり込む。
高知大学人文学部で日本近代史を専攻、旧土佐勤王党の人々が明治に至って自由民権運動に反対したことを卒業論文のテーマにし、平成11年(1999)に「明治初期における高知県の反自由民権派について」(『海南史学』37号)を上梓。
関心は土佐藩以外にも水戸藩、幕臣など歴史の敗者をテーマとして人間の生き様に光を当てること。
共著に『高知県の不思議事典』(新人物往来社)。
昨年12月『土佐史談』に初寄稿となる「吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの―小田村素太郎(楫取素彦)を通して―」を上梓予定。
高知海南史学会会員。土佐史談会関東支部理事。
旗本加藤筑後守忠恕から4代目。

 

『歴史研究』リレー連載過去掲載記事

 

楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―


楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―

  楫取素彦(かとり もとひこ)という名前を聞いて、長州藩士であるとか、群馬県令であるとか、すぐにどのような活躍をした人物か思いつく方は多くはないように思う。また、この人物が吉田松陰と親しかったこと、前妻も後妻も吉田松陰の実妹を妻に迎えていることなど、まして世の中に知られていないように思われる。
  そんな人物の墓が、山口県防府市にある。かつては三田尻の地名で知られたこの街は、ちょうど同県の中央、瀬戸内海側に位置し、幕末長州藩が慶応3年末に朝敵の汚名を返上すべく王政復古・討幕を期して上京する際の出発地となった場所である。そこに諸隊参謀として楫取素彦の姿があった。この年まで楫取は小田村素太郎を名のっていた。
  防府駅を降りて南口から1kmも行かないところに小さなこんもりとした山が見えてくる。そこが桑ノ山である。この山の東麓に大楽寺というお寺がある。同寺は英雲公こと長州藩第七代藩主毛利重就の分骨地として知られ、境内に供養塔がある。墓域は寺の北側に面しているが、南側の少し離れたところにも墓域があって、その南側の墓域に当の楫取素彦夫妻の墓がある。二人の墓は囲いがあるものの、周囲にある大きな墓に比べて目立たず、万遍なく墓を見ないと見逃してしまうくらい、実にひっそりと建っている。
  筆者は、所属する探墓巡礼顕彰会が主催する第1回の巡墓イベントを東京都港区青山霊園で行った際、楫取の前妻ヒサ(吉田松陰次妹)の墓を取り上げた。これがきっかけとなって、楫取にもその前妻、後妻、並びに兄たる松陰にも深い関心を抱いた。調べていくうちに松陰との交友、閨閥が明らかになり、幾多の人物にわたる事項がまとまったため、『土佐史談』245号に「吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの~小田村素太郎(楫取素彦)を通して~」を寄稿し、また、偶々機会を得て、土佐史談関東支部例会において同内容を発表したのである。今回、山口県まで足を伸ばし、楫取夫妻の墓を詣でてきたことから、ここに紹介してみたい。
  楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。なぜなら、生前の吉田松陰と親密な交流があったことはもとより、松陰の文章が他人の良き教訓となるからと、松陰が生きているうちから世に紹介しようとしたことによる。松陰没後もその遺墨が翻刻されるや序文や解説文を送り、顕彰に余念がなかった。松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。
  楫取は激動の幕末にあって、元号が慶応ともなると、松陰のみならず、義弟である久坂玄瑞、実兄松島剛蔵や従兄弟の玉木彦助が戦争や内乱などで相次いで亡くなることに、何処か置き去りにされた観があった。それは次の詩によって心情が読み取れる。

うとまれて物のかずにもあらぬ身を
            うとまぬ人は君ならで誰ぞ

これは「物のかず」の部分が南北朝時代南朝方の楠木正行の詩に

  かへらじとかねて思へば梓弓
            なき数に入る名をぞとどむる

とあるのによく似ている。幕末に相当もてはやされた楠木正成の影響を楫取も例外でなく受けていたように筆者には思われる。
  長州藩の尊王攘夷派として決して派手ではないが、楫取も自宅に幽閉される憂き目に遭った。その時、禍を畏れて親類縁者も見舞いをはばかる中にあって、楫取の心が折れなかったのは、妻ヒサの母、即ち松陰の母による「うとまぬ」励ましのおかげであった。そしてその傍らには松陰の講義を親身に聞いていた妹の妻としての支えがあったのである。妻ヒサは、残念ながら明治一四年(1881)一月一三日、帰らぬ人となった。彼女の生涯は、楫取自身が青山霊園の墓碑に「君」として事績を刻んでいる。その後、楫取は松陰の三妹で久坂玄瑞未亡人の文(美和子と改名)を後妻に迎えたことは、松陰一家と楫取の一体感をよく示している。
  楫取は、群馬県令を十数年の長きにわたり勤め、教育や生糸を中心とした産業振興に尽くし、同県の発展の基礎を築いた。その後元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、大正元年(1912)八月一四日、八四歳の天寿を全うしたのである。ちなみに生年は文政一二年三月一五日(1829・4・18)である。傍らにある「楫取家之墓」には後妻の美和子が葬られ、裏面にその名と「大正十年(1923)九月七日」と没年月日が刻まれている。
  さらに桑ノ山北側を登った招魂場に楫取の実兄松島剛蔵の墓が、北隅招魂場には楫取の義理の従兄弟である玉木彦助の墓がある。

○楫取素彦及び後妻美和子の墓 大楽寺 曹洞宗、放光山。
  山口県防府市桑山1-5-10。
  JR防府駅から徒歩10分。
○楫取素彦前妻杉氏(寿)墓 都立青山霊園一種イ1号29側。
  東京都港区南青山2-32-2。
  東京メトロ銀座線外苑前から徒歩10分