釣 洋一

昭和9年(1934)北海道小樽生まれ。
日活入社後、札幌、函館、小樽等勤務、支配人を経て退職の後、飲食店自営後、職を転々としながら、新選組研究の旅をつづけ、新人物往来社から『新選組再掘記』『新選組秘録』等を出す。
土方歳三の足跡を辿り、中山道から東海道、甲州道中、日光道中を歩き、江戸から会津西街道を経て雪の桧原峠を越えて米沢へ、一日94702歩の苦難の徒歩の旅を体験。
現在、四谷にて音楽酒房春廼舎/幕末酒場・新選組屯所を営みながら、江戸史談会、鬼平忌の主催者として活躍中。
『新選組誠史』『土方歳三波涛録』『新選組宝典写真集』『江戸幕末・和洋暦換算事典』『江戸刑事人名事典火附盗賊改』他、共著、雑誌等多数。

音楽酒房春廼舎/幕末酒場・新選組屯所ホームページ

 

『歴史研究』リレー連載過去掲載記事
「掃 苔 行 脚」

 

暦にない十一月三十一日没の墓


暦にない十一月三十一日没の墓 『歴史研究』2011年8月号掲載

■東京都杉並区梅里1―4―56 浄土宗松苔山西方寺 102区画
  その墓を見つけた瞬間、戦慄にも似た衝撃で思わず、その場に立ち竦んでしまった。
  墓碑の正面には、「左官勝五郎之墓」と、格別なことはなかったが、右側面を見て凝結してしまった。
「明治五壬申年 十一月三十一日 三十九歳寂」
と、暦学上絶対にありえない十一月三十一日という日付が刻まれていた。
  明治五年(1872)までの旧暦と呼ばれる太陰太陽暦では、小の月が二十九日で大の月が三十日であったから、十一月に限らず一月から十二月まで、すべての月に三十一日はなかった。明治六年(1873)から施行されている現行のグレゴリオ暦においても、十一月は三十日左官勝五郎の過去帳で三十一日はない。ということは、明治六年の誤刻ではないかと思った。しかし、明治六年であれば壬申ではなく癸酉でなければならない。三十一日は二十一日の誤りなのかとも考えた。
  それを確かめるため、首を傾げる間もなく寺務所へ駆け込んだ。ご住職が過去帳を提示して下さった。
勇哲院賢英正風居士 十一月廿九日 野村三千之助
明治五年十一月三十一日 左官勝五郎事
明治六癸酉歳
との記載である。

写真:左官勝五郎の過去帳

  この年の十一月は小の月で、本来二十九日が末日である。その翌日は十二月朔日だが、十二月中の葬者がなかったということで、年の明けた一月六日の記載となっている。その後、勝次郎の書き込みとなった。
  そのように読み解くのが過去帳の見方であろう。しかし、この時だけは違っていた。
  暦史を紐解くまでもなく、明治五年(1872)は十二月二日で打ち切られ、翌十二月三日を以て明治六年一月一日(1873・1・1)となった。つまり、明治五年十一月は旧暦のまま十一月二十九日が末日で、翌十二月朔日となって、二日が明治五年の大晦日となったのだから、十一月三十一日は存在しない。ところがドッコイ、そうは問屋が卸さなかった。実は十一月三十一日は一日だけ存在したことを公認する一文があった。
  明治5年11月23日の『太政官布告』第359号「改暦ニ付月日ヲ改定ス」という一項に、
今般御改暦ニ付テハ、来ル十二月朔日、二日ノ両日、今十一月卅日、卅一日ト被定候条此旨相達候事。
との記録がある。しかし、この一件はすぐ取消しになった。
11月24日(達) 第三百五十九号御布告御詮議之次第有之、御取消相成候条右御布告書返却可有之候也。
  12月1日と2日の両日を11月30日、31日に振り替えて、11月を二日延長することを23日に公布された。そのことが翌24日に取り消されたとはいっても、23日一日は11月31日の存在を認めたことになる。
  現実には12月2日の大晦日に亡くなった勝五郎が、何故に存在しなかった11月31日の日付にこだわったか。それは勝五郎の墓の右隣に建立される墓碑の野村三千三に寵愛された恩義に報いるための殉死に外ならない。
  野村三千三(みちみ)とは元長州の奇兵隊々士で、維新後、山県有朋の知遇を得て陸軍の御用達となり、政商として名を馳せた山城屋和助のことである。
  山城屋は生糸の輸出で巨利を得ることを企み、山県から陸軍の予備費60万両の内50万両を借受け、一時は巨万の富を得たが、普仏戦争の勃発によって30万両の損失を出した。山城屋は損失取返しのためにパリへ出かける費用として、山県から10万両の追加借用を受け、明治4年12月27日(1872・2・5)パリへ旅立った。ところが、フランス公使館の鮫島尚信から疑惑の目で見られ、外務省へ身分の問い合わせがあり、副島種臣の知るところとなった。さらに、桐野利秋から司法省の江藤新平に知らされ、山城屋の不正融資事件へと発展した。事件の対応に大わらわの山県は、山城屋に緊急帰国を要請した。帰国した山城屋は再び山県に泣きついたが、桐野利秋、江藤新平、副島種臣らの眼が光っていたのでどうにもならなかった。しかも山城屋の留守中に番頭が洋銀、米、油の相場に手を出し、40万の大損を出していたから堪らない。
  しかも、軍から借受けた60万の内15万だけは年内返済の約定になっていた。さらに、明治5年は12月2日で打切られ、翌12月3日を以て明治6年1月1日とする改暦が決まったため、返済期日が一ヶ月繰上がってしまった。窮地に追い込まれた山城屋は腹を括り、軍への割り戻しデーターや貸付証文などの一切を処分した後、陸軍省へ赴いて割腹した。
  本舗開店の時から扶助の恩恵を被っていた勝五郎は、主の悲報に接して嘆慨悲泣、妻子と水盃を交わし「われ今日に至るまで山城屋に出入りし、多くの人達に棟梁と仰がれたが山城屋滅亡の上は殉死を遂げて、恩人が黄泉の旅に従身せんとして屠腹して相果てた。
■山城屋の墓は別に、横浜市西区元久保町3―24 久保山墓地 8区89・90番97・98番
■左官勝五郎之墓は暦学上貴重なもので、東京の文化遺産として推奨される価値もあろう。左官勝五郎の墓

写真:左官勝五郎の墓